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広島地方裁判所 平成4年(ワ)353号 判決 1995年12月05日

主文

一  被告は、原告甲野花子に対し金一六五万円並びに原告甲野一郎、原告甲野二郎及び原告甲野春子に対しそれぞれ金六五万円並びに右各金員に対する平成四年四月一七日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  その余の原告らの請求を棄却する。

三  訴訟費用は、これを五分し、その四を原告らの、その余を被告の負担とする。

五  この判決は、仮に執行することができる。

理由

【事実及び理由】

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1 被告は、原告甲野花子(以下「原告花子」という。)に対し金三一〇〇万円並びに原告甲野一郎(以下「原告一郎」という。)、原告甲野二郎(以下「原告二郎」という。)及び原告甲野春子(以下「原告春子」という。)に対しそれぞれ金一〇五〇万円並びに右各金員に対する平成二年四月八日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2 訴訟費用は被告の負担とする。

3 仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1 原告らの請求を棄却する。

2 訴訟費用は原告らの負担とする。

第二  事案の概要

本件は、相次ぐ検査にもかかわらず自己の病名が判明しないまま治療のため被告経営の病院に入院中であった亡甲野太郎(以下「太郎」という。)が、病状に対する不安や強度の苦痛から自殺したことにつき、太郎の相続人である原告らが、被告に対し、右検査及び治療に不十分な点があるとして診療契約の債務不履行に基づき、相続した逸失利益及び慰謝料等合計金六二五〇万円(原告花子について金三一〇〇万円、その余の原告について各金一〇五〇万円)及び太郎の死亡日である平成二年四月八日から民法所定の年五分の割合による遅延損害金の請求をした事案である。

一  争いのない事実など

1 当事者

(一) 被告は、本件当時、広島県三次市《番地略》において、総合病院双三中央病院(以下「被告病院」という。)を経営し、医師を雇傭して医療行為を行っていた。被告病院は、県北の医療分野において最大規模を誇り、その中核となる病院であった。

(二) 太郎は、平成元年九月一九日、被告と診療契約を締結し(以下「本件診療契約」という。)、被告病院に入院したが、平成二年四月八日に自殺した。

(三) 原告花子は太郎の妻であり、その余の原告らは太郎の子である。

2 太郎の死亡に至るまでの経過

(一)(被告病院への入院)

太郎は、平成元年九月九日、強度の腰痛を訴え、作木診療所の診察などを受けた後、同月一九日、右作木診療所から紹介を受けて被告病院の内科に入院した。

(二)(入院当初の検査)

被告病院では、太郎の入院後、同月三〇日までに、腹部等の精密検査を行った(以下「入院当初の検査」という。)ところ、膀胱後部の腫瘍、両側水腎症等が認められた。

そのとき、被告病院は胃の内視鏡検査を実施したが、胃のレントゲン撮影による検査は行わなかった。

その当時、内科の担当医は太郎の病気の原因として、胃癌を疑い、胃癌の中にはいわゆるスキルス胃癌があることも可能性としては認識していた。

(三)(泌尿器科における検査)

太郎は、膀胱後部の腫瘍が認められたことから、同年一〇月二日、同病院泌尿器科に転科(以下「転科」という。)した。

泌尿器科においては、五回にわたり、太郎の膀胱後部腫瘍等の組織の一部を採取し病理組織検査(以下「組織検査」という。)等が実施され、その結果はいずれも右腫瘍は悪性とは認められないというものであった。

泌尿器科の担当医は胃癌からの転移も疑っていたが、腹部の内視鏡、レントゲン等の精密な再検査は行わず(平成二年二月二二日、エコーで胃の形態を観察したことは認められる。)、また、内科への再転科、他病院への転院勧告も行わなかった。

(四)(抗癌剤の投与)

平成二年四月二日からは、泌尿器科で化学療法(抗癌剤エンドキサン、オンコビン、ダカルバジン等の投与)を行った。

(五)(太郎の自殺)

太郎は、抗癌剤の投与開始ころより、強度の苦痛を訴えるようになっていたところ、同年四月八日に、付き添っていた原告花子の隙をついて、病院のベランダから投身自殺した。

(六)(解剖の結果及びスキルス胃癌の性質)

その後、太郎の遺体を解剖した結果、当時、太郎はスキルス胃癌に罹患しており、膀胱後部腫瘍はスキルス胃癌の転移であり、そのために前記一連の症状を呈したものであったことが判明した。

スキルス胃癌は、ボルマン[4]型(瀰漫(びまん)浸潤型)胃癌の一種で、胃の粘膜下に広範囲瀰漫的に浸潤し、その中に原発巣と推定される潰瘍性病変が一箇所ある形態の胃癌である。

一般に、スキルス胃癌の発見は難しいといわれているが、進行して胃壁の硬化や伸展不良が出現した場合や、癌腫が内腔面へ増殖した場合には、胃レントゲン検査、胃内視鏡検査での診断は可能である。

二  原告らの主張

1 被告の責任原因

被告病院は、本件診療契約に基づき、被告の雇傭する医師において、最善の注意をもって太郎を診療させる義務を負う。しかし、被告病院には以下のような債務不履行があるから、被告はそれにより生じた損害を賠償する責任を負う。

(一)(入院当初の検査について)

担当医は入院当初の検査で太郎が胃癌に罹患していたことを早期に発見し得たにもかかわらず、それを見落とした。

内科における担当医は、胃癌の疑いを持っていたのであるから、それがスキルス胃癌である可能性も積極的に疑うべきであり、スキルス胃癌を発見するためには内視鏡検査のみでは不十分で、レントゲン検査も併せて行うことが必要であって、これを実施していれば、その時に太郎の胃癌を発見することが可能であったのに、被告病院は軽率にもそれを不要と判断し、レントゲン検査をすることを怠った。

(二)(泌尿器科における検査及び転科、転院勧告義務について)

泌尿器科に転科した後も、膀胱後部腫瘍の原因としては、胃癌からの転移が最も疑われるのであるから、担当医はそれを第一に疑い、再度、胃の内視鏡検査、レントゲン検査等を実施すべきであったのにこれを怠り、胃癌を見落とした。

被告病院ほどの整った設備がありながら、患者が死亡するまでの七ヵ月間にわたる連続した検査をもってしても、まったく胃癌であることが判明しなかったということはあるべきことではなく、それは検査体制の不備であって、担当医の検査・診療における過失があったことを示すものにほかならない。

泌尿器科における度重なる種々の膀胱後部腫瘍周辺の検査にもかかわらず太郎の病気の原因を解明できなかったこと、太郎が胃の不調を訴えていたこと、被告病院においては当初から胃癌からの転移を疑っていたことからすると、被告病院は遅くとも二回の組織検査で原因が発見できなかった時点で、内科への再度の転科、または、適当な他病院への転院を勧告すべきであったのに、太郎の胃の不調についての訴えを聞き流し、漫然と検査を続けた。

仮に、入院当初の検査時(平成元年九月)に異常が認められず発見不可能であったとしても、スキルス胃癌は進行が早く、その進行により胃の状態に変化があったはずであるので、転科後の平成二年二月ないし三月ころの時点で転科、転院するなどして適切な検査を行えば必ず発見できたはずである。

(三)(告知・説明義務、抗癌剤の投与について)

被告病院の担当医は、原告らに対し、平成元年一〇月二九日に「後腹腺線維化症で線維化しているだけで心配ない。」との説明をし、翌年一月ころからは血便が発症し、人工肛門施設手術が行われ、太郎の顔面や足が膨張するなど明らかに症状が悪化しているにもかかわらず、「命に別状はない。」との説明をしていた。

以上の被告病院の原告らに対する説明は、診療契約の本旨に照らして、十分なものとはいいがたく、むしろ、原告らを迷わせるものであって、説明義務違反というべきものである。

太郎は、平成二年四月二日から、抗癌剤の投与を受けているが、担当医が投与した抗癌剤は、膀胱や腎機能に重篤な副作用が生ずるおそれがあるものであって、それらの副作用によって、太郎の苦痛を増大させることは十分に予想し得たのであるから、その投与は回避されるべきであったにもかかわらず、担当医は軽率にも投与を開始した。

現に太郎は、抗癌剤投与と時期を一にして、ものすごい声を張り上げ(ウォーウォーと吠えながら暴れる)、強度の苦痛を訴え始めたのであるから、担当医としては抗癌剤の投与を中止すべきであったが、漫然とその投与を継続したため、太郎の症状はますます悪化し、太郎はその苦痛から逃れるために死を選ばざるを得なかった。

また、担当医において同人が癌に罹患していると考えたなら、原告らに対し、<1>病状からすると悪性腫瘍(癌)の末期症状であること、<2>抗癌剤の必要性、<3>抗癌剤の副作用等について詳しく説明すべきであったのに、担当医はこの点につき、同年三月三一日になって、急に「胃とその周りにかなりの水が溜まっているので、これが癌のためであればお気の毒だがご主人の命は助からない。それで化学療法を行う。」と述べたにとどまり、太郎の詳しい病状や抗癌剤による副作用やその苦痛に対する対応等、十分に説明を尽くさなかったため、原告らは太郎の病状を把握できず、十分な看護をすることもできなかった。

(四)(苦痛緩和措置について)

太郎は、右のように強度の苦痛を訴えていたのであるから、担当医は麻薬性の鎮痛剤などのより作用の強い鎮痛剤を用いるなど十分な苦痛緩和措置を取るべきであったのに、それを行わなかった。

2 原告らの損害

太郎及び原告らの被った損害を金銭で換算すると以下のとおりとなり、その合計は金六、二五〇万円である。

(一)(逸失利益)

太郎は、死亡当時満五四歳の男性であり、自営業として旅館を経営し、平均的な稼働能力を有していた。平成二年の産業計・企業規模計の賃金センサスによる五四歳男子労働者の年間平均給与は金六四三万六九〇〇円であり、六七歳まで一三年間労働可能(ホフマン係数九・八二一一)であり、生活費控除率を三割とみると、太郎の逸失利益は以下のように算定される。

6,436,900×9.8211×0.7=44,252,207(円)

原告らは、右のうち、金四〇〇〇万円を請求する。

(二)(慰謝料)

長期にわたる相次ぐ検査にもかかわらず、原因も解明されないまま病状は悪化の一途をたどり、不安のなかで、検査及び癌自体による強度の苦痛にさいなまれ、ついにはその苦痛に耐えられずに自殺の道を選ばざるを得なかった太郎の苦痛と無念の気持ちは到底金銭に換算できないものではあるが、本件全事情を総合して敢えて換算すると、太郎の右精神的損害に対する慰謝料としては金二〇〇〇万円が相当である。

(三)(相続)

原告らは、(一)と(二)の合計額金六〇〇〇万円を、法定相続分に従って相続した(原告花子が金三〇〇〇万円。その余の原告らが各金一〇〇〇万円。)。

(四)(弁護士費用)

原告らは、被告が任意に損害賠償に応じないので、原告ら訴訟代理人弁護士山田延廣に、本訴提起及び追行を委任し、報酬額として請求額の一割以上支払うことを約した。そのうち、原告花子は金一〇〇万円、その余の原告らは各金五〇万円をそれぞれ請求する。

(五)(原告ら固有の慰謝料)

((一)の逸失利益が認められないときの予備的請求)

原告ら(特に原告花子)は、太郎の病気の原因が不明のため、精神的に不安のまま看護にあたらざるを得ず、苦痛を訴える太郎を見守る以外に術がなかったこと及び最愛の夫又は父が苦痛に耐えかねて自殺したという最悪の結果にたいする原告らの悲嘆・無念の精神的苦痛は甚大であり、それを慰謝するには、少なくとも各金三〇〇万円が相当である。

3 因果関係

太郎の胃癌が早期に発見されておれば、治療により治癒した可能性があり、少なくとも延命の可能性があったはずである。また、癌自体による苦痛及び無用の検査による苦痛を除去し得たはずである。さらに、原告らとしては、癌であることを知っておれば、太郎の身辺を厳重に監督するなど手厚い看護をなし、自殺を防止し得たはずである。

しかるに、右1のとおり、担当医が太郎の癌を見落したため、太郎は右の治療、苦痛除去及び自殺防止などのための措置を受けることができなかった。

したがって、前記被告病院の債務不履行と太郎の死亡による前記の損害との間には因果関係がある。

三  被告の主張

1 太郎の胃癌発見の困難性

太郎の罹患していたスキルス胃癌は、胃の粘膜下の深部に発生、進展し、粘膜面に露出する癌巣が極めて小さいため、内視鏡検査でも原発巣の潰瘍部分の早期発見は困難であり、組織検査でも組織採取部分の選別、特定が困難で、現在の医療水準ではその発見が非常に困難なものである。

2 入院当初の検査について

被告病院は、太郎の入院当初、主に内科において、以下のとおりの検査を実施し、それぞれの結果を得た。

(1) 平成元年九月一九日、内科で生化学的検査を実施したが、腫瘍マーカーCEAは正常値であった。

(2) 同月二〇日、内科で腹部エコーを実施したが、肝胆膵脾の著変は認められず、また、膀胱や前立腺にも悪性腫瘍は認められなかった。

(3) 同月二一日、内科で排泄性尿路造影を実施したところ、両側腎盂尿管の拡張が認められ、下部尿管の流出障害による両側水腎症と診断された。

(4) 同月二二日、泌尿器科における膀胱内視鏡検査及びCTスキャンで診察の結果、膀胱後部腫瘍と診断されたが、同日実施の尿細胞検査では癌細胞の存在を示す異常所見は認められなかった。

(5) 同月二六日、内科で大腸内視鏡検査を実施したが、大腸粘膜に著変はなく、直腸内病変も認められなかった。

(6) 同月二七日、内科で腹部CTスキャンを実施したが、肝胆膵脾の著変はなく、また、大動脈周囲のリンパ節腫大も認められなかった。

(7) 同月二九日、内科で注腸造影を実施したところ、直腸前壁に約一〇ミリメートル大の圧排所見を認め、直腸の粘膜下腫瘍や直腸の腹側の臓器の腫瘍の可能性が考えられた。

(8) 同月三〇日、胃内視鏡検査を実施したが、胃や十二指腸粘膜に異常はなく、潰瘍性あるいは腫瘍性変化は認められなかった。なお、後日、被告病院の内科医全員で右内視鏡検査の際撮影した写真をもとに、その結果の検討を行ったが、異常は認められなかった。したがって、胃のレントゲン検査をするまでもないと判断された。

以上のとおり、入院当初において、被告病院としては当時の医療水準に照らして十分な検査を行ったのであって、本件診療契約上の債務不履行はなかった。

なお、担当医は、当初、胃癌の可能性を疑い、スキルス胃癌の可能性もあることは認識し、診断のために必要な各種検査を行ったが、特にスキルス胃癌を疑わなければならないような検査結果は出なかったのであって、積極的にスキルス胃癌を疑わなければならないような所見はなかった。

また、前記のとおり、内視鏡検査で異常がなければレントゲン検査をする必要はなく、内科における精密検査において、レントゲン検査を行わなかったことをもって、検査が不十分であるとすることはできない。

仮に、胃のレントゲン検査を実施していたとしても、その時に、太郎の胃癌は発見不可能であった。

3 泌尿器科における検査及び転科、転院勧告義務について

被告病院は、太郎の転科後、以下のとおりの検査・診療を行い、それぞれの結果を得た。

(1) 平成元年一〇月一三日、尿を体外へ排出するために右経皮的腎瘻造設術を、同年一一月八日、左腎臓の機能保存のために、左経皮的腎瘻造設術を実施した。

(2) 同年一〇月一七日及び一一月一〇日、泌尿器科で膀胱後部吸引組織検査及び経直腸的膀胱後部腫瘍組織検査及び膀胱尿道内視鏡検査を実施したが、いずれも病理学的には悪性所見は認められなかった。

(3) 同年一〇月二六日、膀胱後部腫瘍の大きさを計測するため、エコー検査を実施した。

(4) 同月三一日、CTスキャンにて、膀胱後部腫瘍の大きさ及び内部の状態について診断し、内部が一部不均一であることを認めた。

(5) 同年一一月六日、エコーで膀胱内の残尿及び左水腎症の程度を診断したが、結果は、膀胱内に残尿はなく、左水腎は中程度であった。

(6) 癌は、肺、肝、骨に転移しやすく、そのうち肺が最も検査しやすいので、腫瘍が癌である可能性も考えて、癌の転移の有無を確認するため、同年一一月六日、平成二年一月一六日、二月二二日、三月三〇日の四回にわたって、胸部レントゲン検査を実施したが、転移所見は認められなかった。

(7) 平成元年一一月一四日、尿路の状態を観察するため、両側腎瘻造影を実施したところ、造影剤が腎盂より下方に流失しておらず、膀胱後部腫瘍が腎盂にまで広がっていることを示す所見と考えられた。

(8) 同月二一日から、膀胱後部腫瘍は良性腫瘍である可能性が考えられ、その鑑別診断と治療のためにステロイドホルモンの一種であるプレドニンの投与を開始した(良性腫瘍であれば、その投与により、腫瘤の増大は止まり、縮小するはずであった)が、腫瘤の増大は止まらず、肛門部痛及び直腸狭窄が発生した。

(9) 同月二九日、膀胱後部腫瘍と精のう腺との関連性を観察するため、精のう腺造影を実施したところ、膀胱後部腫瘍は、前立腺内で増殖、あるいは前立腺の下方で増殖し、前立腺を上方に圧迫している所見が得られた。

(10) 同年一二月一三日、注腸造影を実施したところ、直腸の狭窄が認められた。

(11) 同月一八日、泌尿器科で人工肛門造設術を実施するとともに、開腹時に膀胱後部腫瘍の近接部から組織を採取し、組織検査を実施したが、病理学的には悪性所見は認められなかった。

(12) 平成二年一月八日、同年二月九日、CTスキャンとエコーで膀胱後部腫瘍の大きさを診断し、以前と比較して変化していないことを確認した。

(13) 同年二月二二日、エコーで肝、腎及び胃の形態を観察したが、異常は認められなかった。

(14) 同月二六日、泌尿器科で経尿道的膀胱粘膜切除組織検査及び経直腸的膀胱後部腫瘍針組織検査を実施したが、病理学的には悪性所見は認められなかった。

(15) 同年三月一九日、泌尿器科で経直腸的膀胱後部腫瘍針組織検査を実施した(前回より組織採取量を増やした。)が、病理学的には悪性所見は認められなかった。

(16) その他、生化学検査を実施したが、各種の腫瘍マーカーは全て陰性であった。

以上のとおり、被告病院としては泌尿器科においても当時の医療水準に照らして期待される十分な検査・診療を行ったのであって、本件診療契約上の債務不履行はなかった。

また、膀胱後部腫瘍の原因として、一番に胃癌からの転移が疑われるということはない。それはいくつかの考えられた可能性の中の一つの可能性にすぎない。

太郎については、転科前の入院当初の検査の結果、胃部には異常が認められないという結果が出ており、また、太郎は、転科後、胃部の不調を訴えたこともなく、これらの事情を前提とすると、転科後、泌尿器科において積極的に胃癌の可能性を疑うことは不可能であったのであって、転科後、胃部の精密検査を行わなかったこと、内科への再転科、他病院への転院勧告を行わなかったことは、被告病院の債務不履行にあたらない。

仮に、転院しても、病理学的には悪性なしという結果が出ており、それは、転院先においても同様のはずであるので、スキルス胃癌の診断はできなかったはずである。

4 告知・説明義務、抗癌剤の投与について

被告病院は、原告らに対して、誠実に診療経過等を説明しており、説明義務の履行に欠けるところはない。

泌尿器科に転科後の担当医の説明は、原告ら主張のようなものではなく、「膀胱後部腫瘍による両側水腎症である腫瘍の詳細をみるため、組織検査を行う予定である。水腎症が進行して腎不全になるようであれば腎瘻造設を行う。」というものであった。その後の、「命に別状ない。」旨の説明もしていない。

また、抗癌剤の投与で太郎の苦痛が増加したとの原告らの主張にはまったく理由がない。抗癌剤は、その臨床経過より後腹膜肉腫の可能性が考えられたので投与したものであって、当時の状況からするとやむを得ないものであった。

その際には、「組織検査の結果、病理学的には『悪性の所見なし』である。しかし、臨床的には悪性の経過であり、病理学的な悪性の診断はつかないが、やむを得ず抗癌剤による治療を行う。」旨十分に説明している。

また、太郎は、臨床学的には悪性の経過であったが、病理学的に癌だと認められないかぎり癌だという確実な診断はできない。そして、癌だという確実な診断ができない限りその旨の告知等はできないのであって、癌の告知をしなかったことは債務不履行にあたらない。

5 苦痛緩和措置について

被告病院は、太郎に対して、平成二年三月二六日ころから、レペタン、ペンタジン、カルボカイン、マーカイン等の鎮痛剤の投与を行っており、適切な苦痛緩和措置を行った。

6 因果関係について

仮に太郎がスキルス胃癌に罹患していることが早期に発見できてこれを原告らに告知していたとしても、そのことによって太郎の自殺を防止し得たことにはならず、早期に癌を発見し原告らにこれを告知しなかったことと太郎の自殺との因果関係は全くない。

四  争点

1 入院当初の検査は本件診療契約に照らし十分なものであったか。

2 泌尿器科への転科後の検査等は本件診療契約に照らし十分なものであったか。

3 説明、告知、抗癌剤の投与等は適切になされたか。

4 苦痛緩和措置は適切になされたか。

5 被告病院の債務不履行と原告ら主張の損害との間に因果関係は認められるか。

第四  争点に対する判断

一  入院当初の検査について

《証拠略》によると、被告病院は、その主張にかかる、第二の三1(1)ないし(8)に記載の各種検査を行ったことが認められる。

原告らは、入院当初において、胃の内視鏡検査のみでなく、胃のレントゲン検査を行っていれば、太郎のスキルス胃癌を発見することができた旨主張する。

近年、内視鏡自体の性能が非常に向上したことに鑑みれば、通常の胃癌については、胃の内視鏡検査を行い、異常が認められなければレントゲン検査を行う必要がない場合もあると認められるが、ことスキルス胃癌については、胃の粘膜下に広範囲瀰漫的に浸潤する性質のものであるので、粘膜の表面上を視覚的に検査する内視鏡検査で何ら異常が発見できない場合にも粘膜下に胃癌が浸潤していることがあるのであって、その場合、レントゲン検査はスキルス胃癌による胃壁の硬化や伸展不良を発見するのに有効であることが認められる。

この点に関し、証人溝岡は、内視鏡検査による検査の方がレントゲン検査よりもスキルス胃癌についても初期のものを発見することができ、内視鏡による検査で発見することができなければ、レントゲン検査でも発見することができないかの如き証言をするが、胃癌の診断と治療に関する医学書である甲一、甲五を見ても、スキルス胃癌の検査方法として内視鏡検査による検査とレントゲン検査の双方を用いることが示されているものであり、右証言はたやすく信用することができない。

そうだとすると、被告病院の担当医が胃癌の疑いを持ち、胃癌にはその一種としてスキルス胃癌があることも可能性として認識していた以上、胃部のレントゲン検査をする必要性があったものと認められる。

しかし、この入院当初の検査の時点において、胃のレントゲン検査がなされていたら太郎のスキルス胃癌が発見できたか否かについては、《証拠略》から窺われる当時の太郎の自覚症状等の状況等を総合的に判断すると、その可能性は極めて低かったものといわざるを得ない。

したがって、入院当初の検査の時点におけるレントゲン検査の不実施と太郎のスキルス胃癌を早期に発見できなかったこととの間に因果関係を認めることはできず、被告病院が入院当初にレントゲン検査をしなかったことを根拠に、被告病院の原告らに対する損害賠償債務を認めることはできない。

二  泌尿器科への転科後の検査等について

1 被告病院の行った検査について

《証拠略》によると、被告病院は、その主張にかかる、第二の三3(1)ないし(16)に記載の各種検査・診療を行ったことが認められる。

しかし、これらの検査により被告病院が本件診療契約上十分な債務の履行をしたといいうるか否かについては、さらに、その当時の状況等を基礎に検討しなければならない。

2 再検査の必要性について

原告ら主張のように、被告病院が転科後の相当な時期に太郎の胃部の再検査をして、太郎のスキルス胃癌を発見すべきであったか否かについて検討する。

前記のとおり、被告病院の泌尿器科の担当医が太郎の膀胱後部腫瘍の原因として、胃癌からの転移の可能性があると認識していたことについては争いはないが、転科直後の時期について見ると、その直前に内科において胃部の検査をしており、《証拠略》によれば泌尿器科の担当医は内科の担当医から右検査で異常が発見されなかったという報告を受けていたことが認められるのであるから、泌尿器科の担当医が再度内科に検査を依頼する必要がないと考えたとしても、それを落度とすることはできず、この時期に胃部の再検査をしなかったことをもって本件診療契約上の債務不履行ということはできない。

しかし、その後、相当期間経過後の再検査の必要性について検討するとき、《証拠略》によれば以下の事実が認められる。

太郎の症状は入院以来一貫して臨床的には悪性腫瘍の症状であり、それを担当医も認識していた。

それに加え、転科後、被告病院は平成元年一〇月一七日、一一月一〇日、一二月一八日と膀胱後部腫瘍自体の組織を採取して組織検査を行い、特に一二月一八日の検査は人工肛門造設術に伴って行われたものであって、組織の採取量も十分であったことが認められるが、いずれの検査結果も悪性腫瘍であるとの結果を得られなかった。

このように、膀胱後部腫瘍自体の組織検査が繰り返されたのは、《証拠略》によれば、太郎の病気の原因を特発性膀胱後部腫瘍であるとする疑い、すなわち、膀胱後部腫瘍自体が悪性腫瘍であるとの疑いに基づくものであったと窺われるのであるが、当時、担当医が太郎の病気の原因の可能性の一つとしてそのように考えたこと自体については、転移の可能性を念頭に置いていたとしても転移元を発見することは一般に困難であり、転移先の組織を分析することにより転移元が判明することがあること等に照らしてみると、何ら責められるべきことではない。

ただ、究極的には病院及び医師に自らの生命を託すことを前提とする本件診療契約の本旨及び医師に期待されるべき高度の専門的注意義務等に照らしてみると、太郎は臨床的には一貫して悪性腫瘍の症状を呈していたのであるから、このように数度にわたる、さらにその一回は十分な量の組織を採取して行われた組織検査をもってしても膀胱後部腫瘍自体の悪性所見が得られなかった以上、被告病院は、それに固執することなく、当初に抱いた胃癌からの転移である疑い等のその他の可能性をも再検討し、それらの視点から原因を解明するための検査も、併せて実施すべきことが期待されたといわざるを得ない。

この点、被告病院は太郎が胃部の不調を訴えなかったことをもって胃癌の可能性を積極的に疑うことは不可能であったのであって、胃部の再検査をすることはできなかった旨主張する。

しかし、《証拠略》によれば、太郎は、平成二年一月二日ころ、胃部の不調を担当医に対して書面で訴えていたこと、それに対して、担当医は消化調整作用の効力を持つ薬品を投与していることが認められ、担当医は太郎の胃の不調の原因その他の薬品等の副作用であると判断したものと推測される。その点については、当時の状況からして無理からぬ面もあるが、一般に日本人については胃癌の発生率が高く、担当医も当初から胃癌からの転移であるとの疑いを持っていたこと等の事情も勘案すれば、少なくとも胃部の再検査を検討する契機とはなり得たものと考えられる。

実際にも、前記(第二の三3(13))のとおり、被告病院は平成二年二月二二日に太郎に対してエコーで胃の形態を観察する検査を行っており、その時点で胃癌からの転移であるとの疑いを依然として持っていたことが推認される。しからば、当時、胃部の内視鏡検査、レントゲン検査が困難であった等の事情が認められない以上、その時点でさらに胃部の内視鏡検査、レントゲン検査を実施することも検討されてしかるべきであった。

前記のように、転科直後においては、その直前になされた内科における胃部の精密検査によりなんら異常が発見されなかったことをもって再検査の必要性を認めなかったとしても落度があるとはいい得ないが、その後四ないし五カ月間経過している平成二年二月ないし三月の時点においては、何らかの状況の変化が生じ、以前の検査では発見することができなかった異常を発見する可能性があることにも思いを致し、胃部の再検査を実施すべきであったのであって、被告病院において胃癌からの転移であるとの疑いを持ち続けていたこと、胃癌の中には初期には粘膜上に顕著な兆候を表さないスキルス胃癌もあること、スキルス胃癌の進行速度は速いこと等を認識していたということに鑑みても右のようにいわざるを得ない。

3 胃癌発見の可能性について

そこで、平成二年二月ないし三月ころに胃部の内視鏡検査、レントゲン検査をした場合の太郎の胃癌発見の可能性について検討するに、《証拠略》によれば、解剖時である平成二年四月初旬ころの太郎の胃の状態は、スキルス胃癌により鉛管状となり、漿膜上には多数の白色病変がみとめられ、胃体部は高度の肥厚が認められるというもので、いわばスキルス胃癌の末期状態にあったものと認められる。

また、太郎の膀胱後部の腫瘍がスキルス胃癌からの転移であることからすると、太郎が入院した当初には既にスキルス胃癌に罹患していたものと認められ、ただ、入院当初にはまだその初期段階であったため、粘膜上に病変を表していなかったものと認められる。

そうすると、太郎のスキルス胃癌は、太郎の入院時である平成元年九月ころより、翌二年四月ころにかけて急速に進行したということが優に推認されるのであって、その進行程度からすると、平成二年二月ころの時点においては、癌が相当程度進行し、胃の粘膜上になんらかの病変が認められるようになっていたであろうことを推認することができる。

したがって、その時期に、胃の内視鏡検査、レントゲン検査を行っていればほぼ確実に胃癌が発見されたと認めることができる。

以上により、被告病院が、平成二年二月ないし三月ころに、太郎の胃部の内視鏡、レントゲン検査を行わず、これにより太郎の胃癌を発見できなかったことは本件診療契約上の過失ないし債務不履行であると認められる。

三  抗癌剤の投与等について

前記のとおり、被告病院が平成二年四月二日から、太郎に対して抗癌剤を投与する化学療法を行ったことについては争いはない。

本件で投与された抗癌剤により太郎の苦痛が増加したか否かについては、《証拠略》によれば、確かに抗癌剤の投与とほぼ時期を同じくして太郎が強度の苦痛を訴えたことが認められるが、その一方で《証拠略》に照らして見ると、そのような苦痛が発現したことは必ずしも抗癌剤によるものとは考えにくいといわざるを得ないのであって、さらに、その時期には太郎の癌はほぼ末期に至っていたという事実に照らしてみると、太郎の強度の苦痛は癌自体あるいは被告病院の投与したステロイド剤により増大(《証拠略》により認められる。)した膀胱後部腫瘍等による苦痛が抗癌剤の投与と時期を同じくして発現したことによる可能性もある(なお、ステロイド剤の投与自体が不適切であったと認めるに足りる証拠はない。)。以上の事実及び可能性に、抗癌剤の投与が臨床的には悪性腫瘍の経過をたどった太郎の病気の進行を何とかくい止めようとした被告病院の意図に基づくものであって、右の意図を抱くこと自体は止むを得ない面があると評すべきことをも勘案すると、被告病院の抗癌剤の投与が適切性を欠く、本件診療契約上の債務不履行ないし過失にあたるものであるとすることはできない。

四  説明義務について

1 被告病院の担当医が、原告らに対し、平成元年一〇月二九日に「後腹腺線維化症で線維化しているだけで心配ない。」との説明をし、翌年一月ころに「命に別状はない。」との説明をしていたという事実については、原告花子の供述及びその陳述書により認めることができる。

右のような説明は、事後的に評価するならば当時の客観的事実と相違し、誤った説明であったことになるが、右説明が行われた時点においては、被告病院が右説明の当時太郎の病気の原因を組織学的に解明できず、胃癌を発見できなかったことは前記のとおり明らかである。このような場合、被告病院としてはそれまでに把握していた病状等の事実とそれに基づく医学的推論の限度で説明を行うほかないのであるから、そのような説明と異なる説明をしたのであればともかく、そのような説明をした限りは、これを独立の債務不履行として促えるのは相当でなく、むしろ、端的に、胃癌を発見できなかったことについての債務不履行の有無を論ずれば足りるというべきである。そして、被告病院の担当医の行った右説明が被告がそれまでに把握していた被告の病状等の事実とそれに基づく医学的推論の結果と特に異なるものであったことを認めるに足りる証拠はなく、また、胃癌を発見できなかったことについては既に説示したとおりである。

2 また、原告ら主張の抗癌剤投与の際の説明義務違反及び癌の告知義務違反については、《証拠略》によれば、担当医は抗癌剤投与の直前である平成二年三月二九日ころに、原告花子に対して、病理学的には悪性の所見が認められないが、臨床的には悪性の経過であり、やむを得ず抗癌剤による治療を行う旨及び抗癌剤の投与による副作用として骨髄抑制、脱毛、消化器症状、腎・肝機能の低下、聴力の低下等が生じる可能性がある旨について説明したことが認められるのであって、右の担当医の説明をもって、抗癌剤の投与に関し、十分な説明がなされたものと評することができ、また、癌の告知義務違反の点については、被告病院においては、結局、当時太郎が癌に罹患していると確信を持って診断できなかった以上、前記1に説示したところと同様である。

3 以上より、被告病院に説明義務違反等の点で本件診療契約上の債務不履行を認めることはできない。

五  苦痛緩和措置について

《証拠略》によれば、被告病院は太郎に対して、太郎が痛みを訴えていた平成二年一月ころから、痛み止めの座薬であるボルタレンを投与していたことが認められ、また、強度の苦痛を訴えはじめた同年三月後半ころより、麻薬系鎮痛剤、局部麻酔剤であるレペタン、ペンタジン、カルボカイン、マーカイン、キシロカインを硬膜外麻酔等の方法で投与していた事実が認められ、それぞれ苦痛の度合い、太郎に対するその効果・副作用等について問診を行うなどして適切な分量が投与されていたものと認められるのであって、被告病院の苦痛緩和措置について不十分であったとは認められない。

六  因果関係について

1 逸失利益の損害との因果関係

原告ら主張の逸失利益の損害と被告病院の転科後の平成二年二月ないし三月ころに、再度、胃のレントゲン検査、内視鏡検査を行わなかったという過失ないし債務不履行との因果関係について検討するに、右因果関係を認めるには被告病院の債務不履行がなければ太郎が六七歳まで労働可能であったと認められなければならない。

しかるに、《証拠略》によれば、スキルス胃癌の再発率は高く、手術後の三年ないし五年生存率は決して高いものとはいえないことが認められ、現に太郎のスキルス胃癌は入院当初既に膀胱後部に転移し腫瘍を形成していたこと等の状況に照らしてみると、太郎の胃癌が前記検査によって発見され、手術等の治療がなされたとしても、原告らの主張のような労働可能状態まで快癒し、さらに、当時五四歳であった太郎が六七歳まで労働可能であったという可能性については極めて低いものといわざるを得ず、したがって、被告病院の前記債務不履行と原告ら主張の逸失利益の損害との間の因果関係は認められない。

2 精神的損害との因果関係

しかしながら、《証拠略》によれば、平成二年二月ないし三月ころの時点で太郎の胃癌が発見され、さらに手術その他の治療により太郎の胃癌を取り除く等の処置がなされた場合、太郎の病状が少なくとも一時的には軽快したという可能性を否定することはできないものと認められる。

この点、《証拠略》によれば太郎の死亡時の胃癌の状態はいわゆる末期状態にあったと認められ、その状態を前提とするとあるいは手術不能であったとも見えるが、太郎の胃癌の進行の速度、《証拠略》から認められる平成二年二月ないし三月上旬ころの太郎の病状等を勘案すると、その時点においては、死亡時の状態ほど太郎の胃癌は進行していなかったと推測されるのであるから、手術不可能であったとはいい切れない。

さらに、《証拠略》によればスキルス胃癌の手術後の生存率についてはかなり低いとはいえ、相応の三年生存率(約一四・一ないし三七・五パーセント)、五年生存率(〇・六ないし一八・八パーセント)が認められること、太郎の場合と同じくスキルス胃癌が原因で膀胱後部の腫瘍が発生したという症例で、入院後約六ヵ月経過した後の胃の再検査でスキルス胃癌を発見して手術し、さらに一年間以上生存したという症例があること等を合わせ考えると、太郎の場合も、平成二年二月ころに手術を受ければ、少なくとも癌による死亡時期が遅れ、太郎が相当期間の余命(もっともそれは癌と闘うだけの苦痛に満ちたものであるが、)を享受することができた可能性があったと認めることができる。

したがって、被告病院の前記債務不履行と太郎が余命享受の可能性を失ったこととの因果関係は認められるのであるから、少なくともそれによって太郎が被った精神的損害との因果関係も認められる。

3 原告ら固有の慰謝料について

なお、原告らは逸失利益の主張が認められない場合には、原告らの固有の慰謝料を請求する旨主張しているが、本訴は、太郎と被告病院との間の本件診療契約上の債務不履行責任を求めるものであるから、契約当事者でない原告らが固有の慰謝料請求権を有するということはできない。

また、仮に本訴が不法行為責任(使用者責任)を求めるものと解するとしても、近親者が固有の精神的損害に対する慰謝料を請求することができるのは生命侵害ないしそれに比肩すべき精神的苦痛を受けた場合に限られるところ、前記認定のとおり、被告病院の担当医の過失は太郎のもっぱら闘病のための相当期間の余命享受の可能性を侵害するものに過ぎないのであって、それにより原告らの被る精神的苦痛は生命侵害の場合にも比肩すべき精神的苦痛とまではいえないので、原告ら固有の慰謝料請求を認めることはできない。

七  損害額について

太郎に生じた精神的損害に対する慰謝料の具体的金額について検討するに、太郎は県北において最大規模を誇り、その中核をなす医療機関である被告病院と診療契約を締結することにより、少なくとも当時の医療水準を下回らない、適切な検査・診療を受けることを期待していたというべきところ、太郎は被告病院の債務不履行によりこの期待を裏切られ、適切な検査を受けて自己の病気の原因を知り、判明した原因に応じた適切な治療を受ける可能性を奪われ、相当期間の余命享受の可能性を失ったと認められるのであって、その他本件に現れた一切の事情を総合考慮すると、その金額は金三〇〇万円と認めるのが相当である。

よって、原告花子はその二分の一である金一五〇万円を、原告一郎、原告二郎及び原告春子はそれぞれその六分の一である金五〇万円を相続したと認められる。

また、被告病院の債務不履行と相当因果関係のある弁護士費用としては、原告花子については金一五万円、原告一郎、原告二郎及び原告春子についてはそれぞれ金五万円が相当である。

なお、原告らは太郎死亡の日からの遅延損害金を求めているが、原告らに認められるのは、債務不履行に基づく損害賠償請求権であって、それに対する遅延損害金は、被告病院が本件訴え提起以前に原告らからの請求を受けたことについての主張、立証がない以上、本件訴状送達の日の翌日から発生すると認めることができるにとどまる。

八  結論

以上により、原告らの請求は、太郎の前記慰謝料を各原告が相続したもの及び相当な弁護士費用の合計、すなわち、原告花子については金一六五万円、原告一郎、原告二郎及び原告春子についてはそれぞれ金五五万円並びに右各金額に対する本件訴状送達の日の翌日である平成四年四月一七日から各支払済みまで民法所定の年五分の割合により遅延損害金の支払いを求める限度において理由があるからこれを認容し、その余は失当であるからこれを棄却することとする。

(裁判長裁判官 佐藤修市 裁判官 白井幸夫 裁判官 植田智彦)

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